河野広中の生涯7 福島事件と加波山事件|歴民コラム|三春町歴史民俗資料館
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歴民コラム
河野広中の生涯7 福島事件と加波山事件
明治15年(1882)、喜多方での騒動後、河野広中が12月1日に東京から福島に帰ると、自由党撲滅を目指す三島県令の命により無名館に捜索が入り、河野らは逮捕されました。
河野は、その日のうちに馬に乗せられ若松警察署へ移送され、拘留者が千人を超える福島事件へと発展しました。
若松で厳しい取り調べが繰り返された後、騒動を起こした農民たちは罰金の支払いで釈放されました。
しかし、河野ら主に自由党関係者57人は政治的な判断により、翌明治16年に兇徒聚衆罪の国事犯として、東京の高等法院で裁かれることになります。
河野らは、2月の大雪の中、徒歩と馬で東京の監獄へ移されました。
4月12日に予審が結審すると、51名は証拠不十分で釈放され、河野広中、田母野秀顕、愛沢寧堅、平島松尾、花香恭次郎、沢田清之助の6名が、国家転覆を図る盟約書に署名した内乱罪の疑いで起訴されました。
この盟約書は、前年夏に無名館で署名血判したとされるものですが、実物は見つかりませんでした。
このため、9月1日、河野が軽禁獄7年、ほかの5名が同6年という国事犯としては最も軽い刑が言い渡されました。
この裁判は全国から注目され、義捐金が集まったほか、河野や田母野の評伝書籍や錦絵が発売されるなど、三島の思惑とは反対に自由民権運動の英雄としてもてはやされました。
判決後は石川島の監獄に収監されますが、懲役刑ではなく禁錮刑なので労役義務はないため、河野は読書と座禅三昧の日々を送りました。
しかし、若松で襲われた傷が癒えていなかった田母野秀顕は熱病にかかり、11月29日に34歳で亡くなりました。
遺体や身の回り品は、刈宿仲衛が引き取り、自由民権の志士として盛大な葬儀を行って、谷中墓地に弔いました。
翌17年には他の囚人の脱走事件があり、河野ら5名は仙台の宮城集治監へ移されました。
当初は座禅と読書に明け暮れていた河野も、極度の運動不足を解消するため、ほかの4人と同様に労役に就くようになりました。
河野たちは、労役によって得られた僅かな賃金で、安倍川餅や豆菓子を買って、獄中での楽しみにしていたようです。
明治18年に集治監の所長にあたる典獄が高山一祥に変わると、河野の生活態度が認められ、囚人の代表となる総囚取締にも任命され、読書、座禅のほかに、獄内での精神修養の場である教誨場の運営にも関わり、比較的穏やかな生活を送ったようです。
しかし、河野らが収監されていた明治17年9月に、若い運動家たちが三島県令の暗殺に失敗したことから、茨城県の加波山で決起し、同志を集めて革命を目指しました。
しかし、彼らに追随する者はなく、全員が逮捕され、河野らとは逆に国事犯ではなく強盗犯として裁かれました。
そして、三春の琴田岩松を含む7名が死刑、河野の甥・広躰らは20歳未満だったため、無期徒刑として北海道の空知集置監へ送られました。
(写真:「天福六家撰」と題された錦絵のうち田母野秀顕の肖像)
(2022年7月 平田禎文)