河野広中の生涯8 出獄から政党政治家へ|歴民コラム|三春町歴史民俗資料館
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歴民コラム
河野広中の生涯8 出獄から政党政治家へ
明治22年(1889)2月11日に大日本帝国憲法が発布され、その翌日の大規模な恩赦で、福島事件で獄中にあった河野広中と愛沢寧堅、平島松尾、花香恭次郎、沢田清之助も出獄しました。
宮城集置監を出ると、三春に帰る河野に元受刑者4名も同行し、仙台、福島、郡山の宿で祝賀会が開かれ、小泉から三春への2里は、大雪の中、祝福する人々であふれたといいます。
しかし、社会の状況は6年前とは大きく変わっていました。
河野らの収監中に、加波山事件や秩父事件といった自由民権運動の激化事件が起こり、その責任追及もあり、自由党は解党しました。
ライバルの立憲改進党も大隈重信らが脱退したため、国会開会前に有力政党が不在の状態となります。
しかし、地租の軽減や外交の回復、言論集会の自由を求める声が高まり、明治20年10月、高知の片岡健吉らが三大事件建白書を元老院に提出し、11月には田村郡の有志116名も建白書を提出しました。
こうした動きを取り締まるために、警視総監になった三島通庸らが主導して、12月に保安条例を公布し、570名以上の運動家を東京から追放しました。
こうした政府の動きに対抗するため、高知の後藤象二郎が、バラバラになった反政府運動家を再び全国規模で組織する大同団結運動を提唱し、各地の同志がまとまりつつある中、河野は出獄しました。
河野は当初、政界から引退するつもりでした。
しかし、大同団結の首領であった後藤が、明治22年3月に黒田内閣の逓信大臣として入閣すると、同志たちから背信と目され、運動が分裂します。
このため、後藤に代わって全国の運動家をまとめる人物が必要になりますが、それは板垣退助しかおらず、その板垣を説得できるのは、河野しかいないということになります。
そこで、多くの同志の説得で、福島に落ち着こうとした河野が、再び全国区へ押し出されました。
そして、後藤の金銭的支援を受けた河野は大同倶楽部を立ち上げ、当初意見が合わなかった大同協和会、愛国公党などと合併し、新たに「立憲自由党」として、明治23年7月1日の第1回衆議院選挙に臨みました。
河野は、田村・岩瀬・東白川・西白河・石川の5郡からなる福島第3区に出馬し、過半数を超える圧倒的な支持を得て当選し、その後、亡くなるまで14回連続で当選しました。
立憲自由党は、この選挙で300議席中130議席を確保し、第1党に躍進しました。
そして、立憲改進党とあわせて民党と呼ばれた勢力が、議会の半数を占めましたが、当時は現在のような議院内閣制ではないため、立憲君主制の元で、行政機関である藩閥政府の第3代総理大臣・山縣有朋内閣と対立しながら、立法機関である国会が開かれました。
写真:大正3年に勤続25年の表彰を受けた7名の代議士
板垣退助(右)と大隈重信(左)に祝福され、右から犬養毅、河野広中、箕浦勝人、島田三郎、井上角五郎、元田肇(尾崎行雄は事故で欠席)
(2022年8月 平田禎文)