河野広中の生涯9 旧自由党との決別|歴民コラム|三春町歴史民俗資料館
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河野広中の生涯9 旧自由党との決別
明治23年(1890)、初の国会開催にあたり、議長、副議長などを選出します。
各選挙で河野は100票程度を獲得しますが、各党のバランスなどもあり、最終的に選出されませんでした。
初期の議会は、巨額の政府予算案に対して、民党勢力が政費削減・民力休養を唱えて争いました。
翌年の第2回議会では、国会の予算査定案に応じない内閣に対して河野が抗議演説をすると、樺山資紀海軍大臣が軍事費削減を批判するいわゆる蛮勇演説をしました。
そこで、河野らが政府へ質問状を提出すると、衆議院は解散し、第2回総選挙となります。政府側は警官も動員して圧力をかけ、死傷者も出る選挙干渉を行いました。
第3回議会でも河野は議長候補になりますが、陸奥宗光の画策もあり、同じ自由党の星亨が選出されました。かつて高等法院で河野を弁護した星ですが、この頃から対立するようになります。
河野は、同様に星と対立する立憲改進党の島田三郎らと政府の選挙干渉を批判しました。
第4回議会で河野は、自由党の院内総裁、さらに衆議院予算委員長として政府と対立し、内閣不信任案を天皇へ上奏します、これに対して、和衷協同の詔が出され、妥協が図られました。
その後も、度々議長候補に河野の名が上がりますが、当選することはありませんでした。
明治27年(1894)に日清戦争がはじまると、民党側も政府と協力し、翌年、下関で講和条約交渉中の伊藤博文らに接近した河野は、板垣退助の入閣を条件に伊藤内閣と自由党の提携を果たしました。
しかし、その後の閣内の対立で内閣が総辞職すると、自由党は伊藤に騙されたという風評が広まりました。
その直後の議長選挙で、協力関係にあった党の候補者を差し置いて河野が候補となったことから、党内で動揺が広がり、同30年2月に河野は政治的な出身母体であった自由党を脱党することになりました。
翌31年(1898)に、民党が大合同して憲政党が成立しますが、再び分裂すると、旧自由党系は星が主導していることもあり、対外硬派の憲政本党に入ることになります。
これに対して、旧友の苅宿仲衛は強く反発し、河野と袂を分かちますが、それ以外の福島の同胞たちは、河野と共に歩むことを選びました。その後、伊藤博文が憲政党を再編成して、立憲政友会を立ち上げますが、そこへも参加しなかった河野は、国会の主流から外れることになります。
写真:第1回衆議院議員選挙で当選した300名の肖像画のうち、河野広中(中央)の部分。
上は二本松出身で後に衆議院副議長を務めた安部井磐根、下は河野の支援者でもあった須賀川出身の鈴木万次郎。
(2022年9月 平田禎文)