和算家 助川音松|歴民コラム|三春町歴史民俗資料館
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歴民コラム
和算家 助川音松(すけがわ おとまつ)
佐久間庸軒から助川音松に出された指南免許状
日本で独自に発達した数学を和算といいます。
和算を志す人は、関流(せきりゅう)や最上流(さいじょうりゅう)などといった各流派の弟子となって、師匠の下で基本的な計算方法や、測量などを学びました。
彼らが神社や寺などに、自身の上達を願って掲げたのが算額です。
田村郡に算額が多く見られるのは、最上流を学んだ佐久間庸軒が、二千人にも及ぶ門弟に、精力的に和算を教えたことによります。
庸軒は今の田村市船引町石森の出身で、幕末から明治にかけて、三春藩の藩校などでも教えましたが、その多くの門下生の中でも、助川音松は格段の速さで免許皆伝に至った高弟でした。
音松は安政6(1859)年、現在の田村市船引町に生まれ、明治16(1883)年に庸軒塾に入って数学を学び始め、17年には指南免状を得て庸軒塾の塾長になり、後には北海道に渡り、橋の建設などにも携わりました。
ところで明治政府は、新しい学校制度に、日本で発達した和算を生かそうとはしませんでした。
西洋で確立された数学が採用されると、次第に和算を学ぶ人は減ります。
音松ら庸軒門下生は、大正4年に県の認可を得て、新町に私立庸軒義塾を復活させようとしますが希望者は集まらず、三春でも、和算は忘れられて行くことになるのです。
音松が一つ一つ筆写した佐久間庸軒の著作は、現在資料館に収蔵されています。
(2019年9月 藤井 典子)