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河野広中の生涯10 勅語奉答文と日比谷焼打ち事件|歴民コラム|三春町歴史民俗資料館

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歴民コラム

河野広中の生涯10 勅語奉答文と日比谷焼打ち事件

明治32年(1899)に普通選挙期成同盟が結成されると、幸徳秋水ら社会主義者とともに、政界の主流から外れた河野も名を連ねました。
そして、同34年の第16議会で、選挙資格を満25歳から20歳に引き下げ、高額納税者に限られた権利を撤廃する画期的な普通選挙法案を議会に提出しましたが、残念ながら否決され、廃案となりました。

同36年(1903)、23年前に河野と共に国会期成同盟を代表して請願書を提出した片岡健吉が没しました。
これにより空席となった衆議院議長職を、多数派の立憲政友会が憲政本党に譲ることになり、河野が圧倒的多数で議長に当選しました。

12月10日の開院式で河野は、天皇の勅語に対する奉答文を読み上げて議決されました。
しかし、何かおかしいと思った議員たちが原稿を確認すると、桂太郎内閣を弾劾する内容であったことがわかりました。
しかし、一度議決されたものは訂正できないため、翌日、天皇へ奉呈するため参内するところ一旦延期され、その後、議会が解散されました。
これにより、福島県出身者で最初の議長は、1週間足らずで解任されました。

明治37年(1904)に日露戦争が始まると、国民は増税による耐久生活を強いられます。
日本軍は多大な損害を出しながらも、翌38年にはロシア側の拠点・旅順、奉天を堕とし、日本海海戦で大勝します。
対するロシアは、革命が勃発し戦線を維持できなくなり、アメリカの和睦斡旋を受け入れます。
日本の国民は、日清戦争同様に多額の賠償金がもらえると沸き立ちますが、ポーツマスでの講和交渉で、賠償金は得られなかったことから、条約批准への反対運動が起こります。
こうした国民の不満の潮流に乗った河野は、講和問題同志連合会を結成し、各地で講和に反対する国民大会を開きました。

そして、条約調印前日の9月4日に、河野を総代として条約破棄の上奏書を提出し、翌5日に日比谷公園で国民大会を計画します。
しかし、政府がこれを禁止し、警察が公園を封鎖したため、怒った群衆が公園に乱入し、河野は議長として講和反対の決議案を朗読し、君が代斉唱、万歳三唱で会を閉じました。
その後、新富座で予定した演説会も開催できず、河野は芝紅葉館での懇親会に向いました。
激昂した労働者階級を中心とする群衆は、近くの内務大臣官邸や条約に賛成する国民新聞社、各地の交番や警察署、教会などを襲撃し、無政府状態となりました。
翌日になっても暴動は収まらず、政府は戒厳令を布き、軍隊が鎮圧しました。
2ケ月後に、河野は凶徒聚衆罪で逮捕されますが、翌年4月に晴れて無罪判決を受けました。

奉答文付肖像

写真:三春で発行された奉答文付の肖像画

(2022年10月 平田禎文)

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