河野広中の生涯11 農商務大臣就任と大正天皇|歴民コラム|三春町歴史民俗資料館
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歴民コラム
河野広中の生涯11 農商務大臣就任と大正天皇
日比谷焼打ち事件の無罪確定後、河野は小さな政党を何度か作りますが続きませんでした。
明治43年に立ち上げた立憲国民党もうまく行かず、大正2年に脱党して、奉答文で弾劾した桂太郎総理大臣を党首とする立憲同志会の設立に参加します。
こうした河野の動向は批判されますが、藩閥打倒と二大政党樹立を目指す河野としては、一貫した行動のつもりでした。
しかし、同志会の立ち上げ中に桂内閣は総辞職し、海軍出身の山本権兵衛内閣が成立すると、桂が死去しました。
このため、同志会は加藤高明を党首とし、大石正巳、大浦兼武と河野を総務として勢力を拡大し、大正3年3月には、ドイツのシーメンス社による海軍の贈賄事件を追及し、山本内閣を総辞職に追い込みます。
その後、大隈重信を首班とする内閣が4月に発足すると、党幹部が複数入閣しました。
そして、翌4年1月に、大隈が兼務していた内務大臣に、農商務大臣だった大浦兼武が移ると、代わって河野が農商務大臣に就任しました。
福島県出身者では初入閣でしたが、河野は元々、個別の政策の実現よりも、政治制度の革新を目指す政治家でした。
このため、翌年10月の辞職までの実績は、明治44年に公布されたにも関わらず施行されずにいた労働者保護の工場法をなんとか施行し、製鉄関係予算の拡大や理化学研究所を創設するなど、およそ既定路線にあった政策の実現程度でした。
しかし、入閣により大正天皇に度々拝謁し、勤王の士から立憲君主制の確立を目指した河野には、身に余る栄誉を得ることとなりました。
まず、大臣拝命に参内した後、葉山御用邸に招かれ、その後、秦宮内親王の婚礼などで度々参内し、日光田母沢御用邸にも招かれました。
11月には京都での大礼に供奉し、東京での奉祝行事にも参加しました。年が明けて国会が閉じると、葉山御用邸で牡蛎を献上し、8月には天皇の所望により田母沢御用邸で自筆の揮毫を直接手渡しで献上しました。
この間、1月に勲二等瑞宝章、7月に勲一等旭日大綬章を賜わり、自身の肖像写真を2回献上しています。
そして、10月2日に内閣が総辞職しますが、11月に後の昭和天皇の立太子式に招かれた後、12月に以前から約束していた牡蛎500個を献上しました。
この頃の河野は、いくつかの会社の重役に名を連ねていますが、それらの会社からの報酬はほぼ受け取っておらず、基本的な収入は国会議員としての年間2千円(現在の800万円くらいか)の歳費だけでした。
これは少ない額ではありませんが、その分、物入りも多かったようです。
大臣就任中は、毎月660円の俸給を受けましたが、それ以上に支出が増えています。
河野は、亡くなるまで東京で34年間暮らし、計13ヵ所の借家を転々としましたが、大臣就任中は九段下の千鳥ヶ淵西岸にあった農商務大臣官邸に家族で暮らしました。
写真:大正5年7月30日、明治天皇祭での参内後に大礼服に大綬章を佩用して撮影し、この時の1枚を自筆の揮毫と一緒に献上しました。
(2022年11月 平田禎文)