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河野広中の生涯12 普選運動にかけた晩年|歴民コラム|三春町歴史民俗資料館

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歴民コラムについて

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歴民コラム

河野広中の生涯12 普選運動にかけた晩年

大正5年(1916)に大隈内閣が総辞職した後、河野が力を注いだのは普選運動でした。
衆議院議員の選挙権は、明治23年(1890)の第1回総選挙以来、25歳以上の男子に与えられ、さらに納税額で制限されました。
議会開設当初は15円以上でしたが、同33年に10円以上、さらに大正8年に3円以上に引き下げられましたが、この制限をなくすのが普選運動です。

明治30年(1897)に河野も加わって社会主義者たちを中心に普通選挙期成同盟会を設立し、同35年に河野たちが初めて納税資格を撤廃する普通選挙法案を提出しますが、否決されました。
そして、日比谷事件以降、大正7年の米騒動を経て、いわゆる大正デモクラシーにより民主主義が幅広い階層に浸透すると、普選運動のデモや集会が盛んに行われました。こうした市民運動を支えた団体の多くが、憲政会の傘下にあり、河野は集会での代表的な弁士として引っ張りだこでした。

そして、大正10年(1921)末に開会した第45回帝国議会で、普選運動はピークを迎えました。
それを予見するかのように、翌11年正月の10日に大隈重信、2月1日に山縣有朋の明治政府を牽引した大物が世を去りました。
河野らは、2月5日を普選デーとして芝公園で国民大会、11日の紀元節にも芝公園で第2回国民大会を開催し、選挙法改正案を議会に提出しました。
19日に赤坂山王台で第3回、22日に神田青年会館で全国普選要求代表者大会、そして、23日に選挙権を求める市民デモが国会議事堂を包囲する中、河野は老躯たとえ壇上に倒れても悔いることはないと記者たちに語った後、法案説明の演説を行いました。
河野は、普選断行は既に国民が認めることであるが、一部の守旧派がそれを危険なものと捉えている。
また、普選は認めるが時期尚早と論じる者がいるようだが、国民の文化が未だ普選の施行に適せずと言うは、現代国民を侮辱したものであると説き、議場は拍手と歓声に包まれました。

しかし、その後の討議の結果、議案は否決され、これが河野の最後の国会演説となりました。
その後も、河野は体調不良をおして各地を遊説しますが、関東大震災後の同12年冬には床に臥すようになり、12月29日に小石川区大塚坂下町の自宅で亡くなりました。
死因は肝臓癌で、享年75歳でした。天皇の勅使が自宅を訪れ、祭粢料千円が下賜されました。

年が明けると、自宅に近い音羽の護国寺で葬儀が行われ、護国院殿磐州無得大居士の戒名を授かりました。
その後、三春にも河野を偲ぶ記念碑が欲しいという地元の願いにより、菩提寺の紫雲寺に瘞髪冢が建立されました。

河野の死後、普選法案が可決され、大正14年に納税額による制限がなくなり、そして、太平洋戦争終結後、性別による制限が撤廃された現在のような普通選挙が実施されました。

自宅祭壇

写真:東京の自宅に設けられた河野の祭壇

(2022年12月 平田禎文)

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