算額起源 全(助川音松資料)|歴民コラム 収蔵資料紹介編5|三春町歴史民俗資料館
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歴民コラム
算額起源 全(助川音松資料)
前回、佐久間庸軒の弟子として紹介した助川音松は、庸軒の和算塾の中でも指折りの高弟で、先生の代わりに生徒を教えることができた弟子のうちの一人でした。
後には北海道での橋や道路づくりのため、測量に出たり、測量器や測量方法を考案したりということもしています。
明治政府が、学校の教科として、ヨーロッパで発達した数学を取り入れると、和算は急速に忘れられてしまいますが、音松は三春で和算塾を開き、大正時代までその普及に尽力しました。
本を一冊購入するのにも大変なお金と時間がかかったこの時代、庸軒自身も、その弟子たちも、貴重な本は先生のところで写させてもらっていました。
資料館に収蔵されている音松の資料は、ほぼすべてが庸軒のところで書写されたもので、200冊近くが残っています。
中でもこの「算額起源」は、村松虚空蔵堂(茨城県東海村にある)に掲げられていた算額の問題を、嘉永元(1848)年に芹ケ沢村の佐藤氏が写しとって帰り、佐久間庸軒が解答を吟味する、という内容になっています。
村松虚空蔵堂の算額は、同じ和算でも、関流(“算聖”といわれる関孝和らによる和算の流派)の門人である中村八郎という人が奉納しており、庸軒らが学んでいる最上流和算が、関流への入門を断られた会田安明によって作られた流派であることを考えると、興味深い問題があったのではないかと思われます。
庸軒は、算木という和算独特の道具を用いた方法で問題を解いており、音松は、本文中の図も、師の解答も丁寧に書写しています。
こうした内容をひとつひとつ教えてもらいながら、弟子たちは師とともに、新たな算額の着想を得ていたのでしょう。
『算額起源』より
(2023年5月 藤井典子)