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町村制と地方自治|歴民コラム 町村合併あれこれ 10|三春町歴史民俗資料館

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歴民コラムについて

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歴民コラム 町村合併あれこれ 10

町村制と地方自治

明治5(1872)年、全国に、旧来の村や町を廃し、人口などで区切った大区・小区制度が敷かれました。
例えば磐前県第四大区小6区は、中郷地区の大部分、小5区は阿武隈川流域の村、小7区は守山周辺で、この3つを同じ区長が受け持つという、住民には非常に不便なものでした。

なぜこのようにしたのかというと、明治政府は強力な中央集権国家をめざしており、まずは戸籍に基づく効率の良い徴兵・徴税が必要だったからです。
その後市町村制が復活しても、国から派遣される県令や郡長などが大きな権限を持ち、地域の長には、指示通りに戸籍編成や徴税を行う程度の裁量しか与えらませんでした。

明治11年に郡区町村編制法・府県会規則等が施行されると、ようやく町村制が復活し、「府県会規則」により県会(県議会)を開くこともできるようになりますが、「福島県民会規則」は、これに先駆けて明治10年に完成していました。
当時福島県の小書記官だった中條政恒が中心となり、河野広中らが関与して作ったこの規則は、全国的に見ても画期的なものでした。
県会だけではなく、町村会や郡会等の各民会の議員の選出方法、議決の仕方などを規定、選挙権者は納税額ではなく、動産・不動産の所持により決まるため、より多くの人が選挙資格を得ます。
地域のルールを地元の人々で作る、というこのやり方は、地方自治への目覚めとも言えます。

福島県民会規則は、自由民権思想との融和策をとることを冒頭に提言していますが、県令・三島通庸は、薩摩藩出身の田中章を田村郡長に据え、郡内の自由民権運動を抑え込もうとします。
この後の福島事件で、地方自治の始まりも途切れてしまったと言えるのです。

(2026年1月)

「福島県民会規則」目次 「福島県民会規則」目次

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