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春陽の士11 お姫様つきの藩士|Web資料館|三春町歴史民俗資料館

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春陽の士 11

お姫様つきの藩士

江戸時代の大名は、その地位を保つために、自家と同格あるいはそれ以上の家から正室を迎えました。
秋田家では、江戸時代前期には将軍家の近縁や幕府の要職にある家と婚姻を結びましたが、中期になると同格程度で譜代の小大名との婚姻が多くなり、後期には外様ですが実力のある鳥取藩池田家や土佐新田藩山内家から正室を迎えました。

正室たちは、実家から家臣を伴って輿入れしました。その多くは数年で帰りましたが、前期の附き人には、そのまま残る者もありました。

まず、初代俊季の母、円光院は室町幕府管領細川家の娘でしたが、侍女の甥の五十川勝政、さらに侍女から後に側室となった瑞峯院の兄弟荒木高次が秋田家に仕え、代々要職に就きました。
次に、俊季の正室永寿院(常陸土浦藩主松平信吉の娘)の時は、松平家からの附き人菊池祐正と、侍女の従兄弟の草川次綱が仕官し、代々秋田家に仕えました。
三代盛季の正室正寿院は上野高崎藩主安藤重長の娘で、側近田丸の甥の滝祇次が秋田家に仕え、四代輝季の正室本性院(若狭小浜藩主酒井忠直の娘)の時は、酒井家からの附き人小宮山影義と、女官の兄の赤尾清政が秋田家に仕えました。

龍穏院の姫駕籠を飾る因州蝶紋
龍穏院の姫駕籠を飾る因州蝶紋

当然、秋田家からも嫁ぎ先にお供した家臣がいますが、一部の記録しか残っていません。

まず、輝季の娘大姫が前橋藩酒井家へ嫁ぐ時は、梶塚吉繁が五十石を加増されて酒井家へ行きました。
次に頼季の娘利喜姫が飯山藩本多家へ輿入れの際、木沢長之が十人扶持の役料を添えられ5年間お供しました。
そして、六代定季の娘富姫が高遠藩内藤家へ嫁入りした際は、五十川政峯が3年間内藤家で使えました。

正室は、江戸の上屋敷で暮らしますので、三春へ来ることはありませんでしたが、明治になって十代肥季の正室濃秀院が三春で使用したと考えられる実家の鳥取藩池田家の家紋「因州蝶」の施された駕籠が、龍穏院に保管されています。

(2006年2月 平田 禎文)  

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