願いの記 ~語り継ぐ、あの日、あの場所で~
元陸軍船舶特別幹部候補生・橋本国光さん(98歳)の証言
今年で終戦から81年。町へ一通の手記が届けられました。これは、御年100歳を目前にした一人の元陸軍船舶特別幹部候補生が、ご家族や親族に向けて綴ったものでした。手記には、終戦間際の広島で被爆し、地獄を生き抜いた壮絶な体験と二度と惨禍を繰り返してはならないという切なる願いが込められていました。
町では、この「願いの記」を執筆された橋本国光さん(98歳)にお話を伺いました。当時の様子や、今の若い世代がこれから核兵器や戦争というテーマとどう向き合っていくべきか。本記事を通じて、「遠い歴史」が「自分たちの町に住む、身近な方の歴史」として捉え直され、平和について考えるきっかけとなれば幸いです。
※ この記事は、「広報みはるが好き8月号」に掲載したものです。広報みはるが好き2026.8月号記事 (2.6MB)
※ 町にいただいた原文は下段記載ののとおりです。
― なぜ今、筆を執ったのか
「戦後80年という節目を迎え、広島の惨状を直接体験した者として、二度とあのような悲劇を繰り返してはならない。その想いを、次の世代へどうしても伝えておきたいと考えました」と橋本さんは静かに語ります。
― 広島で被爆した経緯
橋本さんは昭和19年9月、陸軍船舶特別幹部候補の第2期生(特攻兵の養成)に志願しました。四国での教育を経て、昭和20年1月から山口県徳山市の部隊へ転属しましたが、広島での特攻訓練中に法定伝染病(A型パラチフス)に罹患し、病院へ入院した状態で原子爆弾投下の日を迎えました。
― あの日、広島で何を見たのか
【被爆の朝】
昭和20年8月6日の朝。病室のベッドから下りていた瞬間、凄まじい閃光と爆風が走り、窓ガラスは粉々になりました。病院は、助けを求める負傷者であふれかえりました。全身の皮膚が剥がれ落ち、幽霊のような姿で「水をください」と叫びながら息絶えていく人々。当時、伝染病を患い身体の自由が利かなかった橋本さんは、地獄のような光景をただ見守るしかなかったといいます。
【帰郷の苦難】
8月15日、玉音放送で敗戦を知りました。軍服も靴もない中、病院の白衣にトイレの下駄履きという姿で故郷を目指しました。焼け野原の広島を歩き、混乱する大阪駅を抜け、故郷へ。多くの肉親や家を失った被災児たちとすれ違いながらの帰路は、あまりに過酷なものでした。
― 若者を追い詰めた「特攻」という現実
当時、橋本さんは「陸軍船舶特別幹部候補生」として、特攻兵の養成訓練を受けていました。ベニヤ板製の特殊艇で敵艦に体当たりをする「マル・レ作戦」など、国のための死を疑わなかった当時の若者たち。その過酷な訓練の実態は、現代の私たちに平和の尊さをあらためて問いかけます。
― 未来へのメッセージ
インタビューの結び、橋本さんは力強く語ってくださいました。「原爆の体験は、一生忘れることができません。二度と戦争を起こしてはならない。平和を願い、社会全体の幸せを考えてほしい。戦争は、絶対にあってはならないのです。」橋本さんが命をかけて語り継ぐ『戦争は絶対に起こしてはならない』という言葉。その重みを、今、私たち自身がしっかりと受け継いでいかなければなりません。
8月6・9日の「原爆の日」、そして15日は「戦没者を追悼し平和を祈念する日」を迎えるにあたり、戦争で犠牲になられたすべての方々に心から哀悼の意を表します。
※三春町では、悲惨な歴史を繰り返さないように昭和60年10月26日に「三春町核兵器廃絶町宣言」を行っています。
願いの記(橋本国光氏 著 原文)
私は戦後80年を迎え、戦争の恐ろしさ中でも原子爆弾による被害の大きさ悲惨さを、広島で体験した者として一人でも多くの人に伝え、戦争が起こらず二度と原子爆弾が落とされぬよう願いながら筆を取りました。
1.私が広島で被爆に至った経過(特攻作戦の詳細については後記する。)
① 昭和18年に開始された、陸軍船舶特別幹部候補生隊(15才から、内実は特攻兵の養成)に
② 昭和19年9月.第2期生に志願、各県ごとに実施された学科試験に合格、出征兵士と同様に同級生や多くの村人に見送られて、四国小豆島の幹部養成所に入隊4か月間教育を受け
③ 昭和20年1月.山口県徳山市の暁16711部隊教育隊に船舶の専門的知識を習得のため転属
④ 同4月.各兵が家庭の事情等調査(を受けて)
⑤ 同6月.マル、レ特攻要員として江田島、幸の浦の第10教育隊(特攻隊訓練所)に編入
⑥ 同7月特攻訓練中に法定伝染病(A型パラチフス)に罹患し
⑦ 広島陸軍病院江波分院に入院中に被爆。
8月6日の朝は、ようやく室内は歩けるほどに回復していて、たまたまベットから下りていた時、突然「ピカッと」青白い閃光が走り、間を置かず「ドカッと」物凄い爆風で窓ガラスは粉々に室内に飛び散った。反射的に目や耳をふさぎ、ベットの上にいたらダメだったろうが、運良く下にいたので少しも怪我は無かった。「退避、退避」の声に皆夢中で防空壕に走った。
防空壕から出てみると入道雲のようなのが空一面に広がり、巨大なキノコ型に立ち上がっていた。
暫くすると、被爆した人達が助けを求めて集まってきたが、老若男女の区別なく、身体全体が火ぶくれて顔は大きく腫れあがり、衣服はボロボロで皮膚と一緒に引き裂け垂れ下がってまるで、幽霊のような悲惨な有様でした。
皆「助けて、助けて」と叫びながらフラフラと病院に入ってきて、たちまち院内は勿論、軒下や外の広場まで一杯にあふれた。
「兵隊さん助けて下さい、水を下さい」と死に物狂いで叫ぶ人達にどうすることも出来なかった。軍医からは絶対に水をやってはいけないと命令があり泣き叫ぶ声に応える事が出来ないばかりか、伝染病が完治していない身体の状況で、充分な手伝いも出来ず、ただ見守るばかりだったのが残念でならない。
夜になり、トイレに起きると、廊下は溢れる負傷者と死体でふさがり手探りで死体を乗り越えてベットに戻ったことは忘れられない。
8月7日~空襲警報が鳴るたびに防空壕に何度となく行き来したが、ある時入口に体全体がまるで風船のように腫れ上がり、動けなくなった老婦人がいたこともありました。
8月15日身体はすっかり回復していて、正午の玉音放送を聞き、必勝を信じていた自分には理解できなかったが院長の説明で敗戦と知る。
8月16日一時帰宅命令が出るが、軍服も軍靴もなく、病院の白衣に下駄ばきで故郷に向かう。市内は焼け野原で、ただ一つ目についた焼け残りは原爆ドームだったのだろうか、他には何一つ残って無い中を、どんな苦労をしても親兄弟の待つ故郷に帰るの一心で汽車の出る駅に向かって歩く。汽車は満員で屋根の上まで溢れていたが白衣に下駄ばきの同情して助けてもらい乗車出来た。
8月17日大阪駅に着き乗り換える。駅構内には、肉親と家をなくした多数の被災児がいて改めて敗戦を実感する。その後あの子供たちはどうなったろうと今でも思う。
8月18日郡山着、舞木駅に下車し、学生の時勤労奉仕で通った事を思い出し万感胸に迫る。帰宅した時の家族の喜び様はまさに筆舌に尽くし難いものだった。
当時は誰でもそうであった様に自分も「国のため、天皇陛下のために死ぬ」のは当たり前と信じて疑わなかった。
しかし、人の命を軽くみる特攻への疑問、自身も被爆で髪の毛がぬけ、目の前に生き地獄の惨状を見てさらに被爆者に対する偏見と差別への恐れから広島でのことは一切口には出さず、広島にいたと証拠になるものも全て焼却処分をしたこと。また、戦死した次兄の遺骨を郡山の如宝寺で受け取り、帰宅したその日に長兄戦死の公報を受け取ったこと、義兄を含めると兄弟3人が戦争の犠牲になった体験から、繰り返しになるが、二度と戦争は起こしてはならないし、核兵器が一日も早く無くなるよう願い、一人でも多くの方に伝え続けたい。
後記
特攻作戦のこと
1.私は陸軍船舶特別幹部候補生(特攻)二期生、マル・レ作戦①に配属された。
一期生約1,000名はフィリピンや沖縄に作戦で向かう途中アメリカ軍に攻撃されたり自爆したりで、目的を果たせたのは約200名位とのこと。
2.作戦名…船舶部隊特攻作戦
幾つかの作戦がありその要員も、基地江田島の幸の浦には2,000名程の要員が訓練を受けていた。
① マル・レ作戦…ベニヤ板製の艇長約5メートルの特殊艇に、自動車(トラック)用のエンジンを船舶用に転用し搭載し航続力3~4時間の特攻用特殊艇で、艇尾に爆雷を搭載し目標の直前で舵を一杯に切り、遠心力で爆雷を敵艦に打ち付けるか体当たりで敵艦を爆破する作戦。
② マル・ハセ作戦…半分潜水し爆雷を搭載し体当たり、敵艦を破壊する作戦。(終戦まで間に合わず学科の習得のみ)
③ マル・ユ作戦…潜水輸送艇で闇夜を利用し、敵の上陸地点に切り込み隊を上陸させ攻撃する作戦。
令和7年8月15日
橋本国光 著
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