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三春滝ザクラのミニ知識

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 このコーナーでは、令和4年広報「みはる」の6月から12月号にかけて、三春滝ザクラ国の天然記念物指定100周年を記念し、特集記事として掲載した三春滝ザクラに関するミニ知識を掲載しています。

滝桜ってどんな木?

 この三春滝ザクラ国の天然記念物指定100周年事業では、滝桜を「三春滝ザクラ」と表記しています。これは天然記念物の指定名称で、生物学の見地から生き物の種類はカタカナで表記しているためです。しかし、実は指定時の表記は、「三春瀧櫻」でした。詳しくはわかりませんが、史蹟名勝天然紀念物保存法が、昭和25年に文化財保護法に変わった時に表記も変わったようです。このコーナーでは、特に必要がない限り、なじみが深い「滝桜」と表記します。

 さて、生物の種(しゅ)としての滝桜は、バラ科サクラ亜科サクラ属エドヒガン種です。そして、その中でも花色の紅が強く、枝垂れる形質を持つことから「紅枝垂(ベニシダレ)」と呼ばれています。一般的に種とは、自然環境で交配して子孫を残すことができるものですが、サクラは自家不和合性が強いため、同じ木の花粉を受粉しても結実しません。このため、滝桜の実は周辺のほかのエドヒガン種の花粉を受粉したもので、実際には開花期が近いソメイヨシノとの交雑種が多いと思われます。さらに、枝垂れる形質は劣性遺伝であるため、滝桜の種を蒔いても、1割程度しか枝垂れません。

 なお、ベニシダレの学名はPrunus aquinoctialis MIYOS.var.pendula MIYOS.f.rosea MIYOS.で、天然記念物指定に尽力した三好学博士の名前が3つも入っています。

滝桜の図 「天然記念物調査報告植物之部第七輯」に掲載された滝桜の図。三好博士によると、概ね3個ずつ繖形に花が着きます。

(広報「みはる」令和4年6月号掲載)

滝桜の大きさと成長

 滝桜の大きさは、2007年の調査で、高さ13.5m・根回り11.3m・地面から1.2mの幹周りが8.1mでした。過去の記録を見ると、滝桜は斜面にあるので測り方によって高さは9m~19mとバラツキがありますが、幹周りはおおよそ9m前後です。

 ほかの三大桜と比較すると、山高神代桜(山梨県北杜市)が、高さ10.3m・幹周り11.8mで、根尾谷淡墨桜(岐阜県本巣市)は、高さ17.3m・幹周りが9.4mですので、三大桜では平均的な大きさです。こうした古木は、成長と折れ、枯れを繰り返しているので、資料によっては大きさが違って書かれています。そして、ほかの三大桜や五大桜は、主幹が失われ支幹や脇幹で樹形が形成されている状態ですが、主幹が保たれている滝桜は、その美しさが際立っています。

 こんな古木ですが、滝桜の枝は毎年1050㎝程度成長しています。桜は、花が咲いた後、5月から7月頃にかけて一気に枝を伸ばし、それから9月くらいまでに翌年の花や葉の芽をつけると、葉を落として休眠期に入ります。このため、春に花が咲いている部分は、前年の成長範囲に限られるので、満開の滝桜を見ると、老木なのに1年であんなに生長していることに驚かされます。

 しかし、枝垂れ桜の特性から、新しい枝が育つ分、日影になった古い枝は枯れ枝になります。それが、幹の負担になるとともに、風通しも悪くなり、枝折れや病害虫の原因になります。そうしたことを防ぐために、5年毎に滝桜全体に足場を架けて枯れ枝の剪定を行っています。

滝桜の大きさと成長 前年の伸長枝についた楕円形の花芽と先が尖っているのが葉芽

(広報「みはる」令和4年7月号掲載)

滝桜の空洞と不定根

 滝桜について、昔は幹に空いた穴に入って遊んだという話を聞きます。

 樹は年輪を見るとわかるように、前の年に成長した外側に、新しい組織を作って毎年成長します。このため、樹齢千年の滝桜の幹の中心には、千年前に形成された古い組織があるはずです。しかし、残念ながら古い木質は数百年経つと腐ってしまうことが多く、滝桜も幹の中心は、高さ7mくらいまで人が入れるほどの大きな空洞になっています。このため、滝桜を切っても、年輪から樹齢を数えることも、古い組織を分析して年代を測定することもできません。

 ところが現在の滝桜の根元を見ると、大きく開いていた空洞はほぼ埋まっています。これは、幹の中ほどから下に向って伸びた10数本の「不定根」と呼ばれる根が成長したためです。不定根は、幹の腐朽部分を栄養としながら伸びてゆき、地面に到達すると地中から水分と栄養を得て、太く育っていきます。

 現在の滝桜は、幹の中に7本ほど、外にも5本ほどの直径20㎝以上の不定根が螺旋状に成長しており、空洞の中が満たされるとともに、外側の朽ちかけた古い樹皮を抱え込むように育っています。また、幹上部の開口部は、まだ開いたままなので、2016年にはスズメバチが直径50㎝ほど大きな巣を作りました。

 このように、滝桜の古い組織は次第に腐っていきますが、それを栄養にしながら、新しい組織が成長するという新陳代謝を繰り返して、現在のような姿になりました。千年後にはどんな形になるのでしょうか。

滝桜の主幹の外観 滝桜の主幹の外観

幹の上部(外側も腐って中の不定根が見える状態) 幹の上部(外側も腐って中の不定根が見える状態)

開口部にできたハチの巣 開口部にできたハチの巣

(広報「みはる」令和4年8月号掲載)

滝桜の子孫樹

 滝桜の子どもや孫の樹は、何本くらいあるのでしょうか。

 三春を中心に阿武隈山地には、滝桜と同じ「紅枝垂桜」と呼ばれる「エドヒガンザクラ」が数多く分布しています。

 蛇石の柳沼吉四郎さんは、昭和44年から3年かけて田村地方周辺を歩いて回り、根廻1.2m以上の360本の紅枝垂桜を調査しました。その結果、滝桜から離れるほど細く、小さく、そして数が少なくなることから、分布の中心が滝桜であり、その多くが滝桜と関係が深いのだろうと推定しました。詳しい遺伝子調査などはしていませんが、この地域の紅枝垂桜は、滝桜の兄弟や子孫あるいは親戚である可能性が高いです。なお、平成元年に三春さくらの会が行った「三春町さくらセンサス」では、三春町内に紅枝垂桜は約1,400本ありました。

 吉四郎さんは、桜の調査をしただけではなく、滝桜の種を拾って苗木を育て始めた人でもあります。特に息子の吉左エ門さんとハナさん夫妻の代は、全国に滝桜の苗木を広め、記録が残る昭和49年から平成7年までの22年間で、4,700本以上を送っています。なお、柳沼家では昭和の頃は滝桜の種を直接拾っていましたが、その後は、滝桜の子の樹にできた種から苗を育てています。このほか、一般的に滝桜の子孫の樹の枝を接木して苗を育てている方が多いのですが、これも元は滝桜の子なので、子孫樹と呼んでも良いかと思います。

 また、滝桜の種を蒔いても、育つ苗はエドヒガンであって、その中の一部だけが紅枝垂になります。このため、三春周辺の枝垂れていないエドヒガンの中にも滝桜の子孫樹は多いと推測され、全国には数万本の滝桜の子孫が育っていると考えられます。

 南成田の大桜と八十内公園のかもん桜は、町指定の天然記念物です。大桜は枝垂れていないエドヒガン、かもん桜は紅枝垂で、どちらも滝桜と同種なので、近縁関係の桜と考えられます。

八十内公園のかもん桜 八十内公園のかもん桜

南成田の大桜 南成田の大桜

(広報「みはる」令和4年9月号掲載)

滝桜に鳥居があった頃

 滝桜の古い絵や写真を見ると、樹の根元には、江戸時代から丈六焼きの瓦製祠が置かれ、明治時代になるとその脇に木製の祠が並んで祀られます。そして、現在の大きな柵が設置された時に、木製の祠は桜正面の柵が開いた場所に移されました。

 最近、滝桜を描いた古いスケッチブックが見つかりました。これは、仙台市出身の太田聴雨(おおたちょうう)のもので、昭和前期を中心に帝展や院展などで活躍した著名な日本画家です。表紙に「櫻」と題されたスケッチブックには、8枚の枝垂れ桜のスケッチがあり、「三春 滝桜 四月丗日」のメモもあります。太田はこのスケッチを元に、六曲一隻の屏風を制作しましたが、残念ながら写真が残るだけで作品は所在不明です。スケッチの中の1点は、桜の根元に鳥居が描かれています。同じように、石川町出身の角田磐谷(つのだばんこく)が昭和16年に描いた滝桜図にも、鳥居が描かれています。太田は、会津出身の酒井三良と昭和10年代に各地を旅しながら絵を描いており、同じ頃に三春を訪れたのではないかと推測されます。なお、完成品である屏風には、支柱が3本描かれていますが、鳥居は描かれませんでした。これは、太田と角田の写実への意識の違いと思われますが、太田も滝桜の複雑な幹や枝ぶりを描いています。

 このほかに、鳥居がある絵や写真は確認されていませんが、大陸での戦争が太平洋戦争へ拡大する時期に、滝桜をはじめとした桜が国民精神の象徴として祀られ、さらにそれが画題として好まれた可能性もあります。

角田磐谷の滝桜図(田村高校同窓会所蔵) 角田磐谷の滝桜図(田村高校同窓会所蔵)

 

太田聴雨のスケッチブック(部分) 太田聴雨のスケッチブック(部分)

(広報「みはる」令和4年10月号掲載)

雲井に轟く滝桜

 滝桜を紹介した古い文献を見ると、こんなに立派な桜なのに、辺鄙な場所にあるので、見る人が少ないと嘆いています。

 そんな滝桜を、全国に紹介したのが三春藩士の草川次栄です。草川は天保6年(1835)に上京し、著名な歌人の加茂季鷹らとの懇談中に、話が滝桜に及びました。加茂は、それほどの桜ならば、それを称賛する歌集を作りたいと、草川に桜の図や大きさなど書かせました。それを公家たちに紹介すると、朝廷で話題になり、光格天皇の耳にも達し、諸国名所の部に収められたといいます。こうして天皇にも認められた滝桜を、京都の歌人や公家たちが50首ほどの歌を詠み、草川はそれをまとめて藩主・秋田肥季に献上しました。

 その後、肥季の弟の秋田季春が、さらに全国の名士から滝桜の歌を数百首集め、図なども加えて歌集を作らせたといいます。残念ながらその歌集は残っていませんが、当時、林大学家の塾頭を勤めた朱子学者・河田迪斎による「滝桜記」という序文だけが伝わっています。

 昭和15年に、この序文を著書の『桜史』に収めた国文学者の山田孝雄は、こうした経過から、「されどここに陸奥の片田舎にありながら名をは雲井に轟かしたる花こそあれ。そは何ぞいふに、三春の滝桜これなり」と評しています。

 江戸時代に滝桜を詠んだ歌のうち代表的な6首が、滝桜前の県道沿いポケットパークのあちこちに、プレートとして表示されています。滝桜の後の丘にも、草野心平の歌碑がありますので、皆さんも滝桜を見に行った際は、こうした歌を探してみてはいかがでしょうか。

名に高き 三春の里の 滝ザクラ  そらにもつつく 花の白波

 名に高き 三春の里の 滝ザクラ  そらにもつつく 花の白波

都まて 音に聞こえし 滝桜  いろ香を誘へ 花の春風

都まて 音に聞こえし 滝桜  いろ香を誘へ 花の春風

(広報「みはる」令和4年11月号掲載)

滝桜を守り伝える

 滝桜は、三春盆歌に「殿の桜で折られない」と唄われるように、江戸時代から保護されてきました。正確な記録はありませんが、江戸時代後期に記された「滝佐久良の記」によると、三春藩主・秋田氏が三春に来た1645年には、「愛ずるばかりの樹」だったので、周りの畑の年貢を免除し、保護させたといいます。そして、桜が咲くと滝村の庄屋が殿様に連絡し、殿様は柵を作って枝を折ることを禁じ、花見に何度も訪れて歌を詠みました。

 しかし、明治維新で殿様がいなくなると、柵が作られなくなりました。誰でも樹に近づけるようになると、枝を折ったり、樹に登ったりする者があらわれたため、1880年頃、それらを禁じる立札を福島県が作り、開花期になると村長が桜の近くに建てたといいます。明治時代後期になると木製の柵が作られ、1922年に天然記念物に指定されると、国の補助を受けて中郷村が石柱に鉄の鎖を渡した頑丈な柵を設置しました。太平洋戦争中、この柵は金属として供出されますが、戦後、再建され、平成になると現在の石柵が設置されました。

 また、いつ頃からかはわかりませんが、昔は周辺の農家の方々が、馬や牛の堆肥を滝桜に運んで施していましたが、馬や牛がいなくなると途絶えてしまいました。そこで当時、滝桜の種を拾って苗を育てていた蛇石の柳沼ハナさんが堆肥をあげたり、草刈りをしたそうです。しかし、現在のように整備されると、勝手に柵の中に入れなくなったため、滝地区で「滝桜保存会」を結成し、正式に草刈りや施肥をするようになりました。

 これと同じ頃、中郷小学校に「滝桜を守る会」が結成され、当初は桜の生育状況の観察や清掃を行いましたが、現在は、開花期にごみを拾ったり、観光客をもてなしたりするほか、種を拾って子孫樹を育てる活動をしています。

 このように、滝桜は400年も前から地域の人々に守られており、100年前からは国の支援を受けるようになりました。これからも、滝桜の保護に関わった小学生をはじめ、近隣の方々だけではなく、その魅力にとりつかれた多くの方々によって滝桜は守り伝えられ、次の100年、1000年と滝桜は美しい花を咲かせ続けると思います。

滝桜保存会による施肥作業 滝桜保存会による施肥作業

(広報「みはる」令和4年12月号掲載)

 

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