高乾院と龍穏院|Web資料館|三春町歴史民俗資料館
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高乾院と龍穏院
高乾院
龍穏院
三春藩主秋田家の菩提寺は、高乾院(こうけんいん)と龍穏院(りゅうおんいん)の二ケ寺です。
通常、大名菩提寺が二ケ寺あると、奇数藩主と偶数藩主に分けるなどされますが、秋田家の場合には、ほとんどの藩主が高乾院に葬られ、唯一8代藩主謐季(やすすえ)のみが龍穏院に葬られたのです。
これまで、高乾院と龍穏院がどのように区別されていたのかははっきりしませんでしたが、東北大学附属図書館所蔵「秋田家史料」中の「秋田盛季宛秋田実季書状」には、次の一文が記されていました。
長亨寺・国清寺と申候ハ、某家之政季・忠季か事にて候を、我等同し禅と申しなから、そうとうはをくはんざんはニ相かへ候故、此両寺をは龍穏院へゆつり、高乾院と名付申候。是ハ十三湊にて日下将軍家はいし候大さう寺又其外之名も候しを、出羽之ひ山へうつり候時、寺号ハ相替候其例を以我等ひたちへうつり候初にて候故、それかし之名にして高乾院と申候。
これだけでは何の意味か良く分かりませんが、これには次のような背景があります。
秋田実季は、自分の法名である「高乾院」を名前としたお寺を常陸国宍戸(現在の茨城県友部町)に建てました。
しかし、寛永8(1631)年に実季は領地を召し上げられ、伊勢国朝熊(現在の三重県伊勢市)に流されてしまいました。
新たに宍戸領を拝領した実季の息子俊季は、以前から仲の悪かった父実季の法名を持つ高乾院を、湊福寺という寺名に替えてしまったのです。
これを聞いた実季は、湊福寺は我が家の分家の先祖安東鹿季の法名ではないか、本家の菩提寺に分家の人物の法名を付けるとは何事か、と激怒したのです。
上の一節は、そうした流れの一部分です。わかりやすくご紹介します。
長亨寺・国清寺というのは我が家の先祖政季・忠季の法名だが、私は同じ禅とは言え、曹洞宗を関山派(臨済宗妙心寺派)に変えたので、この両寺(長亨寺・国清寺)を龍穏院へ譲り、別に高乾院を建立した。これは、十三湊(現在の青森県市浦村)で我が家の先祖日下将軍が拝していた大さう寺やその他の寺を、出羽国檜山(現在の秋田県能代市)に移った時に寺号を替えた例にならい、私が常陸へ移る初めなので私の法名をとって高乾院としたのです。
つまり、秋田実季が宍戸へ移る以前には、安東家(秋田家の本来の名字)の宗派は曹洞宗であり、実季はそれを臨済宗妙心寺派に替えたために、自分以前の先祖の菩提寺を龍穏院とし、自分以後の菩提寺を高乾院にしたと言うのです。
現在においても、龍穏院は曹洞宗、高乾院は臨済宗妙心寺派ですが、秋田家菩提寺の特殊性は、上のような理由だったのです。
ちなみに、龍穏院には実季の父愛季(ちかすえ)の墓などがあり、上の内容とぴったり合致しています。
ただし、8代藩主謐季が龍穏院に葬られた事情は、今のところ明らかではありません。 (→「秋田謐季(長季)の墓所」)